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● 生贄

 モロは「生贄」として捧げられ、人間に捨てられたサンを不憫に思いながらも、純粋な狼族としてではなく、人間として育てていたのではないか。いつか人間として暮らせる時が来たとしても、暮らしていけるだけの智恵を与えていたのではないか。あるいは、人間と徹底的に対決するためにも、人間文化を学ばせる必要を感じたのか。
 サンの衣裳・容姿に共通しているものは、縄文文化の呪術的性格である。モロは、室町時代の人間を憎みながらも、自然と共生していた縄文人を人間の模範と見立て、狼族とは違った教育をサンに施していたのではないか。たとえば、土面の風習は稲作文化の始まった弥生時代には途絶えている。
 なお、人間を生贄として森に捧げる風習は太古より世界各地にあった。いずれも暗い森のほとりに住む人々が畏れと信仰によって行ったものである。サンは、荒ぶる森の神々を鎮めるために、ほとりの村から捧げられたものと思われる。物語から十年〜十五年位前のことだろうか。この時期に何があったのだろう。
 エボシタタラの操業開始か。それとも大規模な鹿・猪・狼猟か。もし、人間が神々の攻撃を回避するために、自らの罪を改めずに生贄だけを贈ったとすれば、モロの人間への深い軽蔑の理由も分かるような気がする。つまり、「生贄を差し出すので破壊を認めろ」というエゴ丸出しの請願である。そこに、共存の発想は欠片もない。
 現代にも、これと構造的によく似た話がある。森と村をダムの底に沈め、地蔵や神社の御神体だけを移動させるのである。土地を殺して神だけ残す。突然移された場所に、都合よく同じ神が宿るだろうか。

● 乙事主と猪族―ニタとくまどり

 乙事主は鎮西(九州)猪族の総大将であり、人語を解する「猪神」である。タタラ神となったナゴの守も出雲の一族を率いた猪神であった。
 猪神の話は、「野猪」という名で『今昔物語集』にも登場する。人を呼び止めてからかった罪で殺されてしまう野猪の話、夜な夜な病死体を覆う青白い光を放つ野猪が退治されるの話(いずれも『巻第二十七』収録)などである。乙事主も青白い姿をしている。白子(アルビノ種)が神であるのは、モロの君同様よく伝えられるところである。
 一種の図鑑である『和名類聚抄』では、「毛郡類」の項目で、人を騙す高等順に「狐」「狢(正体不明の動物。狸という説もある。)」、そして「野猪」を挙げている。つまり、ナンバー3の位置を与えられているわけであるが、その正体は不明である。ちなみに、単なる猪(イノシシ)ははるか後の項目できちんと扱われている。
 猪は、体を冷やし、皮膚の虱を取るために、山中のたまり水に出没し、体をこすりつける。あるいは松の木などにも体をこすりつける。この習慣を「ニタ(またはヌタ)をウツ」と言い、作中でもきちんと描かれている。日本各地に残る「ニタ」「ムタ」などの地名の語源である。
 このニタは、「神の出現する場所」という含意があるとする説もある。沖縄の宮古島の島尻部落では、自然の貯水池を「ニッダァ(ニッジャ)」と呼び、神界への入口と見なしている。祭りの時には、仮面を被った男がここで泥を塗って部落に下りて来て祝福を与えるという儀式がある。
 作中の猪たちは、出陣前に盛んにニタをうち、互いの体に泥で円を描く「くまどり」を行っていた。この儀式には、お清めや神がかりの意味があったと考えられる。
 「隈」とは、歌舞伎役者が顔(目の周囲や顎など)に施す特殊な化粧を指す。これも仮面と同様、凡庸な人間からの変身を意味するものである。
 また、作中では猪の無謀な特攻が描かれるが、実際「猪突猛進」の語意通り、追いつめられた猪の反撃はすさまじいものだそうである。手負いの猪の攻撃を受け、絶命した狩人も多く、「崖っ淵まで追われて、ついに谷底に落とされた」という伝承も多く伝わっている。
 乙事主の故郷である九州には猪を祭る神社が多い。大分県大野郡の熊野神社の元宮には、大量の猪の下顎骨(「カマゲタ」と言う)が祭られている。宮崎県西宮市のの銀鏡神社では、今でも猪の頭を供えて祭りを行う。
 猪は山の神であるとの伝説もある。ヤマトタケルは、伊吹山の神様を退治しようとしている際に、巨大な白猪に会った。猪は氷雨を降らせてヤマトタケルを悩ませ、ついには死に至らしめる。白猪は地域全体の神であったのだ。乙事主は、この伝説に現れたような存在であったのかも知れない。
 なお、巨猪伝説としては、北設楽郡古戸の山で実際に三五〇キロ近い巨猪が狩られた―という伝説もあるそうだ。まさに、作品顔負けの巨猪である。あの時代、本当に「獣は大きかった」のかも知れない。